【短編】コラプス 第十二章
次の日もオレは林の中にいた -
視線はしきりにバス停と手元のメモを行き来している。
バスの時刻や行先、運転手、乗車する人達がメモと齟齬がないか、素早い手つきでチェックしていく。特に乗車する人達に新しい変化があれば、新たに書き起こしていく。
- 顔つき、身長、体形、クセ
- 見落とさぬよう最善の注意をもって
傍から見ると、途方もないように感じるこの作業もルーチン化してしまえば、
さほどの本来の脳のメモリは使用しないのであろう。
それを裏付けるかのように、並行して仮想空間で仕事をしていたオレの勤務評価にここ数日で特に変化は見当たらなかった。
林のなかでの監視業務を終え、昨日と同じように家路につく。
翌日も監視業務をこなす。同じく家路につく。
そしてまた翌日、変化が起きたのはその日だった -
【短編】コラプス 第十一章
帰宅したオレは玄関先で職場から支給を受けたIBMを耳裏のスロットから抜く。
恐らく仮想空間上での職場では退社の挨拶でも済ませたのだろう。
それと同時に、先ほどまで奇妙な行動をとっていた肉体の支配がHMM(Health Maintenance Memory)から本来の脳に移る。
オレは普段通りに玄関を開け、ただいま、と夕飯の支度を台所でしている母親に届くよう声を出して、スニーカーを脱ぎ家に上がる。
先程まで身に着けていたポンチョやブーツといった装備一式は袋にまとめて物置小屋に格納済みだ。
廊下を歩く途中で体の筋肉の張りを感じたため、IBN上のメールサービスにアクセスしHMMから送信されてきた本日の運動結果を確認するが、いつもと変わりない。そんな日もあるかと痛むところを摩っただけで、最早それ以上の興味を捨てる。
オレは帰宅までの奇行に気づけない。
そもそもが無自覚での行動で、結果が虚偽のものだったのだ。
そこに予期せぬ行動がプログラミングされているなど、知る由もない。
今のオレがしているように深層メモリを敢えて掘り出してみないと辿り着けない認識なのだ。
何も気づけない阿呆のオレは、その日もご機嫌にDIMを頭蓋のスロットに差し込み、トリップしながら眠りに入る。明日もまた同じ日がくるのかと - ボヤキながら。
【唯の独り言】移住の気持ちに向き合う
新型コロナで分断されてしまった世界。
そんな今だけど、考えたい。将来の移住先と生活。
どこに行き、何をすることで生きていくのか。
ただの憧れでしかない移住。現実との折り合いをどこでつけるのか。どんなスタイルなら実現できそうなのか。
若くもない。明確なビジョンなんてない。何から手をつけてよいかもわからない。
難しく考えないようにイージーに向き合ってみたいと思う。
憧れを現実にできるかは知らないし、考えない。
ただ闇雲に向かって行きたい。
【短編】コラプス 第10章
1日目はバスと乗車する人々を観察して終わった。
観察中は、バスの行き先、時刻、車種、運転手、乗車する人の顔、体型、歩き方など、全てを手書きのメモでDB化していた。驚くほどの速度、緻密さで。
薄暗い林の中で、蝸牛のように突き出した双眼鏡から得た情報を基に、蹲りながら唯黙々と手元が処理を進める ー 何か昔の人間が畏た妖怪のようなモノが具現化されたようなその姿は、とても自分のものとしては受け入れ難かった ー
日も暮れ始め、帰宅すべき時間が近づくとオレはご機嫌そうに家路に着いた。
【短編】コラプス 第9章
翌日からオレの奇行は始まっていた。
1日目はいつも通りに起床し、窓辺に行き、コロに餌を与え、母親の手作りの朝食を食べ、出勤する。意識は仮想空間のデスクに行き、体はプログラムに操られ無意識的に歩いている。
ただし、いつもとは違う経路を歩いていた。街に向かい、下町の裏路地に入ると、路上に店を構える中古品の露天商等から迷彩柄ポンチョ、トレッキングシューズ、双眼鏡等をDIMと引き換えて購入していた。
その足でそのまま今オレがいるこの場所に立ち、グルグルと回らない目で双眼鏡を覗いていた。
バス停に人が並び、バスが来て、人が乗込む、その様子をじっと見つめている。
メモリの中にいたオレは不気味なくらい静かで、顔に虫が止まっても微動たりともしない、ただの森の一部の塊がそこにある、そんな感じった -
【短編】コラプス 第八章
判断力を放棄したオレはあの女に誘われるがまま、バーに併設された個室に連れられていった。
妖精が馬を森の水辺に優しく曳くように優しくも蠱惑的に、深い苔を踏みしめぬよう注意深くも潔く。
その光景は他者から見れば、単なる家畜。
オレはなされるがまま服を脱がされてソファに身を沈めている。
目の前では少し離れた距離をとって、あの女が服を脱いでいる。
女が裸になるとさっきまでは生き物の白い肌だったものが、ガラス質のようなものに変わり、
体を揺らすたび、腕を振るたびに、鮮やかな色のエフェクトが薄く滑らかにその上を滑っていった。
近づいてくる。1歩、1歩近づくたびに、光の揺らぎ、無数の香り、妖しい挙動、それらが情報の波
となって流れ込んでくる。
もはや抗えない ー
抗う必要もない ー
オレの自我が空白に落ちたその瞬間、女が何か囁いたが、もはや聞き取る余裕はなかった。
その日、フロートでのオレの記憶はそこで途切れた。
【短編】コラプス 第7章
話しかけられること自体は珍しいことではなかった。そういう役割のNPCが配置されていることもあれば、男を誘うことで金を稼ぎたい女もいる、特に非合法の仮想空間にいれば日常茶飯事だ。
オレはいくつか質問をしてNPCではないことを確認すると、隣の席を許した。現実世界での性別や、プロか素人かはどうでもよかった。これまでのどの女をも圧倒する造形美、物腰、声、拒否する理由を見つける方が難しかった。
ジンが好きなの ー
そういってマティーニに口づけし、湿った唇を桃のような色をした舌ですっと舐める。舐める音のオレの耳に送りつけられ、強制的に再生される。この手の女には注意が必要だ。朦朧とする男を相手にハックを掛け、脳の中身を全て抜き取るといった事例もある。そうなれば廃人確定。だが、オレはそんなことがどうでいい位に高揚していた。